オファー 鍋島直大書状/鍋島直大・鍋島栄子・松平健子の和歌 古文書【23-1109-1】

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【状態】書状:20×53cm、ヤケ、シミ、少虫損和歌:18×51.5cm 【和歌・翻刻1】世と共にとしいはゝれてためしなき家のほまれをまする嬉しさ      栄子【現代語訳】世の中の移ろいとともに長寿を祝われて、この上なく鍋島家の名誉が増していく嬉しさよ。 【和歌・翻刻2】御盃たまはるまてにおいにけりみつのみよにもつかへまつりて直大【現代語訳】(天皇陛下から)御盃を賜るまでに老いたのだな。三つの御代(孝明・明治・大正天皇)にもおつかえ申し上げたのである。 【和歌・翻刻3】世にひろく時めく人にいはゝるゝ老のうれしさ何にたとへむ健子【現代語訳】世の中のたくさんのすばらしい人からお祝いされる老いの嬉しさを、何に例えたらいいのだろう。 【書状・翻刻】拝啓、愈御清穆奉賀候、扨碌々たる老躯も聖代の餘光に浴し、今年古稀の寿を重ね候処、かしこくも此事天聴に達し、天盃御下賜相成、恐懼の至ニ奉存候、猶偶然ニも拙妹・慈貞院は喜寿、拙妻・栄子亦還暦の賀に遭遇致、為辱知、諸君よりハ各所に寿筵を開きて御優遇を蒙り、特ニ各宮妃殿下よりも御祝歌を拝受し、光栄無此上候、就てハ諸君に対し、聊の感謝の微意を表し奉らんの為、先帝陛下以来、屡々行幸啓し、辱したる拙邸に於て、園遊会を開催し、右記念として拙筆供貴覧候、御笑納被下候ハゞ、本懐不過之候、草々拝具、 大正四年七月     侯爵 鍋島直大
【1】鍋島直大(なおひろ 1846~1921)弘化3年(1846)8月27日、佐賀城二ノ丸で鍋島斉正(直正)の嫡子として生まれる。幼名は淳一郎。直縄・茂実とも名乗った。母は国家老・鍋島周防守茂慶の娘、お浜の方。万延元年(1860)、元服して直縄と名乗る。文久元年(1861)3月13日、従四位・信濃守に叙任、十四代将軍・徳川家茂の一字を拝領し、茂実と名乗る。同年12月、家督を継いで肥前守を名乗り、文久2年(1861)4月11日、佐賀へ入部。明治元年(1868)、直大と改名。明治元年2月入京、議定職・外国事務局輔加勢・同局権輔、3月には横浜裁判所の副総督となる。同年5月、総野鎮撫の命を受け、藩兵を上野・東北戦争に送った。上野戦争では江戸城本丸で指揮をとり、佐賀藩兵らがアームストロング砲で活躍、横須賀造船所をフランス管理から引取り守衛した。同年6月、外国官副知事、8月、左近衛権少将、9月、政府参与職となり、12月には藩制改革のため佐賀に帰郷する。明治2年(1869)、薩・長・土に列して版籍奉還を建白した。同年7月、フランス皇帝ナポレオン三世から黄金メダルを贈られたが、これは佐賀藩が慶応3年(1867)の第一回パリ万国博覧会に参加したためであった。明治4年(1871)からイギリスへ留学、同12年(1879)、外務省御用掛、明治13年(1880)、特命全権公使イタリア在勤、のち元老院議官となる。明治17年(1884)には侯爵となり、式部長官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任した。大正10年(1921)6月7日没、76歳。墓は東京都港区の青山墓地と佐賀県佐賀郡大和町の春日山墓所にある。従一位勲一等旭日桐花大綬章を贈られた。嗣子・直映、長女・朗子(侯爵前田利嗣夫人)、次女伊都子(梨本宮妃)。 【2】鍋島栄子(ながこ 1855~1941)安政2年(1855)5月18日、公家・広橋胤保の五女として京都に生まれる。明治13年(1880)、イタリア公使として赴任する直大に同行し、ローマで結婚式をあげた。明治15年(1882)帰国。明治16年(1883)、明治政府の「欧化政策」の一環として社交場、鹿鳴館が開かれた。直大は舞踏練習会幹事長となったが、栄子は夫を助けてダンスの指導に当たった。この時の様子は、フランスの作家ピエール・ロティの小説「江戸の舞踏会」に描かれており、彼女も“アリマセン公爵夫人”として登場する。明治20年(1887)、栄子は日本赤十字社篤志看護夫人協会会長に就任する。日清・日露戦争では率先して傷病兵を看護したほか、各地の病院を慰問し、「日本のナイチンゲール」と呼ばれた。その他、東洋婦人会・大日本婦人教育会などの役員も務めた。昭和16年(1941)1月3日死去、87歳。 【3】慈貞院、松平健子(たけこ/けんこ 1839~1918)天保10年(1839)10月25日、佐賀藩主・鍋島斉正(直正)の長女として誕生する。はじめ休姫(よしひめ)と名付けられたが、年末に貢姫(みつひめ)と改名される。母親は斉正の御通女中・山本お勇であった。安政2年(1855)、水戸斉昭の八男である川越藩主・松平直侯(なおよし 1839~1861)に嫁ぐが、夫は文久元年(1861)12月10日に23歳で死去。彼女は夫の死後、慈貞院と名乗り、江戸の川越藩邸にいたが、幕末の江戸城開城の際は危険をさけるため、父・斉正の命によって佐賀に帰る。川越藩に歌道でつかえた尾高高雅に和歌を学び、また書道の有栖川流に堪能であった。大正7年(1918)5月20日、死去、79歳。死後の大正9年(1920)、慈貞院の歌集『松の露』が出版された。 【参考文献】『国史大辞典』『日本人名大辞典』中野礼四郎『鍋島直正公伝 第6編』侯爵鍋島家編纂所、1920~21年『上毛及上毛人 (162)』上毛郷土史研究会、1930年西村謙三『鍋島直正公一代記』1931年高群逸枝『大日本女性人名辞書 訂』厚生閣、1942年

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